本多静雄の功績と「見立て」の精神 − エンジニアの眼が捉えた日本陶磁の源流

本多静雄の功績と「見立て」の精神 − エンジニアの眼が捉えた日本陶磁の源流

雑誌『目の眼』1995年1月号(No.220)に掲載された、本多静雄氏による連載「白寿翁閑話(1)」を再掲いたします。

 

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「白寿翁閑話(はくじゅおうかんわ)」と題されたこの連載は、本多氏のコレクションにまつわる逸話を通じて、モノの背景にある歴史や物語を語るものです。


本多氏はもともと京都大学電気工学科卒のエンジニアで、前半生は美術品にはほとんど興味がなかったといいます。転機が訪れたのは昭和9年(1934年)。陶芸家・加藤唐九郎氏との出会いが、彼を陶磁器の世界、とくに愛知県の猿投山麓の古窯跡の発掘へと駆り立てました。


「技術者であるので、陶器類に対しても審美眼ばかりでなしに、技術観を持った。その技法や素材、作者にも関心があった」


本多氏は「破片(陶片)」を約5万点も収集し、窯の構造や変遷を技術的に解明しようとしました。この「本多コレクション」の多くは、現在、愛知県立陶磁美術館に収蔵されています。

この連載がスタートした1995年には、すでに98歳(数え年で99歳・白寿)であった本多静雄氏による自身のコレクションと人生を振り返る貴重な記録となりました。

 

目の眼デジタル月額読み放題サービスでは、1995年1月号から1996年12月号までの連載をご覧いただけます。

 

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白寿翁閑話「灰釉多口瓶」

本多コレクションについて

 

本多静雄


 私は前世紀の一八九八年の一月五日の生まれなので、一九九五年の新年で九十八回目の誕生日を迎えたことになる。このコレクションの話を予定通り二ヶ年続けると、九十九歳白寿になる。  

 

幸いにして、現在特に悪い所もないが、体中の機能が低下して、不便この上ない。とくに記憶力が減って、人の名前など、顔ははっきり覚えていても、なかなか思い出せないので困ることが多い。  

 

週日には名古屋市鶴舞公園の前にある通信ビルに通って、旧友と碁を打ち、閑があると好きな狂言の新作台本を考える。もう百歳に近くまで生きると、老醜で無残であるが、昔から親しくした友達が何れも先に他界して、淋しい限りだし、死ぬのが怖くなくなった。それは悟りでも何でもない。あきらめである。生物は死ななければ再生できないのは、どういうわけか分からないが、とにかく「生者必滅、会者定離」である。

 

ところで百年に近い私の生涯を振り返って見ると、第二次世界大戦の終了の一年前、すなわち一九四四年までは、古い美術品などには、ほとんど興味がなかった。  

 

私は京都大学の電気工学科を卒業しているので、前半生は職業柄、電気とか音響や光に終始していた。  

 

敗戦の一年前、一九四四年に郷里の愛知県の猿投山の麓に帰ってみると、そこに陶工の加藤唐九郎さんが疎開していた。唐九郎さんは私と同年の生まれで話が合った。陶器大辞典を作った人だから、何でも知っている。その人から人生の雑学を教えられ、陶器に関する私の師匠となった。だから、本多コレクションはその時期からの蒐集品で、ちょうど私の人生の中間点からの約五十年間のものである。

 

技術者であるので、陶器類に対しても審美眼ばかりでなしに、技術観を持った。その技法や素材、作者にも関心があった。それから完品ばかりでなく破片も集めた。例えば猿投古窯址群の発掘に当たっては、零細な破片も全部蒐集した。その数は約五万点に達した。
 

その内で形のほぼ見えるものは、破片一万個に対し一個あれば多い方である。骨董品は世間の美術商から買い入れるのが、一番容易で安価であると思う。  

 

それやこれやで、こま犬は二百体以上、瀬戸は桃山以前の壺や仏花器、茶碗や皿の類が三百点以上、瀬戸の染付の印判物が千三百点以上、円空仏は三十体集めた。そのほか熊谷守一さんの書が好きで、これも二十点以上になった。その他の雑物は数えてみない。

  

これらは、折角集めたものを散逸するのは残念なので、財団法人の設立も考えたが、後の維持が大変なので、県や市へ寄贈して保管してもらうことにした。  

 

それで、猿投古窯のものは最近に、こま犬は十年以上前に愛知県の陶磁資料館へ、印刷物は瀬戸市に、その他は豊田市に寄贈したので、現在私の収蔵書庫には古瀬戸のものしかない。  

 

それで、本多コレクションの連載を今年の一月号から本誌で始めるに当たって、いつ死ぬかも知れないから、なるべく書き溜めておくことにすると共に、所蔵品の所在地を明記しておくことにした。寄贈先で常時陳列のものはそれでよいとして、その他のものはその業務に差し支えない限り、在庫品でも篤志家には便宜見られるようにしたいと思っている。

 

 

『目の眼』2026.2・3月号 特集「須恵器 世界を変えたやきもの」より
[重要文化財 灰釉多口瓶 猿投窯 愛知県みよし市・黒笹36号窯跡出土/平安時代初期(8世紀末) 本多静雄氏寄贈 愛知県陶磁美術館蔵]

 

 

多口瓶  

 

猿投古窯の出土品を挙げるとすれば、すでにほうぼうで紹介されている多口瓶を挙げなければならぬ。  

この品は外観上は瑕一つないようにみえるが、写真に示したように、高台の内がひどく焼けただれて中央の口と通じており、使いものにならぬので、窯跡に捨てられて、そのおかげで私達に窯跡から発掘されて国の重要文化財になったのである。  

ロクロが手が切れる程上手で、多口のバランスも良いので、一応花器と整理されているが、用途については疑問がある。また猿投窯は灰釉初源と言われているが、この瓶の釉薬が初源に当たるかどうかも問題である。最近、飛騨の国府でその小型のものが一つ見つかった。  

私はかつて、ロシアの黒海に面したヤルタへ観光に行ったことがある。そこは第二次世界大戦の後始末をするため、一九四五年の春に連合国の首脳者が集まり、朝鮮半島の分割や千島諸島を日本から切り離すことなどを決めたところである。その一角にロシアの文豪チェーホフが結核を患って静養していた邸宅があり、観光の目玉にもなっている。  

そこへ行ったとき、この多口瓶と同じ形ではあるが、グーンと大きく、私の背丈ほどもある大きな甕があり、やはり多口瓶であり、どうも雨水を溜める目的らしく屋根から樋が渡してあった。それが日本の猿投古窯までシルクロードか何かが橋渡しをしたのであろうか。両者相似であるのを見て、こっちはびっくりした。  

もし観光か何かでヤルタへ行かれたら、チェーホフの家と、これを見落とさないようにお願いしたい。  

この瓶は愛知県陶磁資料館(現在の愛知県立陶磁美術館)に常陳されている。

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