kokyoto

連載「新・京都迷店案内」 ① 昂KYOTO(こう きょうと)

  

 

ほぼ埼玉と東京を行き来しながら生まれ育った私にとって、京都住まいはまるで憧れの地に観光でやって来てそのまま住み着いてしまったという感じがする。

大阪で大学時代を過ごし、何時かは関西に住んでみたいと漠然と考えてはいたが、本当に京都に住む事になるとは自分自身が一番意外だった。

気がつけば京都に住民票を移して17年。もう17年なのかまだ17年なのか良くは分からないのだが、出張から帰って来て京都タワーを見るとほっとするのも当たり前になった。

もちろん何年住もうが京都の人になれるわけでもないし、「他所さん」で構わないのだが、いつまで経っても苦手なものが一つだけある。それは京都生まれの女性、つまり京女へのコンプレックスなのである。

 

 

 

昂(こう)と読む。昴(すばる)と字がよく似ているが違う文字である。

 

気持ちが昂ぶることを「激昂する」というが、「たかぶる」という意味で使われる。

キリッとした形の文字だと想う。

これが名前になると「あきら」と読む場合がある。

今回取り上げさせて戴く永松仁美さんのお父様も昂(あきら)というお名前であった。

過去形なのはすでにお亡くなりになられているからである。

 

永松さんはご両親が古美術商という少し変わった環境の中で、京都に生まれ育った。

子供の頃から私学の小中学校に通っていたので、近くには友だちがあまり居なかったという。

京都で公立の学校に入ると、小学校から高校まではずっと同じ仲間と一緒である。

昔の番組制度の名残なのであろうが、京都に住んで驚いたのは「学区どこ?」と聞かれることである。

そのくらい学校と地域との繋がりは深いのである。私学に通っていた永松さんは一人、建仁寺や青蓮院へ自転車で遊びに行き、妄想ままごとなどをしていたそうだ。

 

 

絵を描くのが好きだった永松さんは嵯峨美術短期大学に進学すると、ビジュアルデザイン科で写真を撮ったり、イラストを描いたりしていた。

いろいろな表現方法を勉強できて、とても楽しかったという。

ふつうならそこで表現者の道を選ぶのであろうが永松さんは違った。

「卒業してすぐに結婚しました。20歳ですね。両親に高校生の時からお見合いしろと言われてましたから、心配やったんちゃうかな。今となっては総てが早くすますことが出来て、良かったのかもしれないとは想いますが」。

 

 

その言葉通り、子育てが一段落したあたりから何か表現したいという気持ちが湧き上がって来るようになったが、やはり永松さんの中には古美術商の御両親の血が流れていたのかもしれない。

自分が良いと想えるモノを多くの人に伝えたいという気持が強くなり、お店を始めたのは2008年のこと。

自分の好きなフランスやイギリスのアンティークとお母様から借り受けた骨董品などを並べて始めたお店が「tessaido annex 昂」で、前年に急逝したお父様の名前を冠にした4坪ほどの小さなお店だった。

 

 

在る時、永松さんが目利きだと信頼する友人から紹介されたのが、陶芸家の辻村史朗さんとそのご子息の辻村唯さんであった。

これがこれ以後の永松さんの方向性を決めることになる。

「古いモノだけが良いモノだと想っていた人間に、同じ今の時代に生きて、良いモノを作る作家の一所懸命仕事してる姿を観たら感動するからといわれて、作家の住む奈良に連れて行ってくれたんですね。

衝撃でした。まずお父様の史朗さんを紹介して戴いたんですけれど、私のところには唯さんがたぶん合うからと一回行ってみたらと勧められて。そこで唯さんに逢いに行き、有り難くも展覧会をして戴けることになりました。

ところがいざ展覧会を開くことになると作品を何百点って持って来てくれたのですが、お店に入り切らないんですよ。そういう打ち合せの仕方も分からなかったんです。たまたま古美術今出川さんがギャラリースペースを持っておられたので、無理を承知でお願いして大壺を並べさせて戴きました。

いきなり二カ所で展覧会をするという無謀なスタートになりましたが、皆さん温かく引き受けてくださり、今でも忘れることのない感謝多き思い出です」。

 

 

最初にお母様から言われていたことがあった。

それは「被る仕事をしてはいけないと。その被るという意味もよく分かっていなくて、今思うと売るモノだけではなくて、仕入れ先を一緒にしないとかそういうことも言いたかったのかなと。

ただ私は自分の力でやると決めていたので、そんなことは関係ないと反発した時期もありましたが、とりあえず母屋と被ることはしないと。

でもそのお陰で友人からいろんなアイディアを貰えたり、限られた条件の中で切磋琢磨できたことが却って良かったと今では想います」。

 

 

お店の名前を「昂KYOTO」と改めたのが2012年のことである。鍵善良房が営むZEN CAFEのオープンに伴い、鍵善の社長・今西善也さんからご縁を戴き、9年前に今の場所に越して来た。

2人は同じ歳でもあるし、昔からの幼馴染なのかと私は想っていたが、実はこの時からのつき合いなのだという。 

 

 

今では永松さんのセンスに魅せられたファンが、全国津々浦々から祇園にやって来る。

「目の眼に載っているようなお店に行かれるような方の一つ手前の段階のお客様に、私と同じような主婦や若い方も多いのでジャンルを問わず、暮らしの中で使える道具の楽しさを伝えていけたらいいなと想っています。

例えば何か一つモノを手に入れたら、それを敷くモノが欲しくなる。もちろんランチョンマットでもいいけれど敷板やお盆もありますよと。それらがあると焼きモノだけではなくガラスや漆の器でも合うし、お花も映える。一枚の敷板がきっかけとなり、骨董やアンティークを本気で好きになる人がその中から一人でも多く出て来てくれれば嬉しいです」。

 

 

永松さんは母性の人だと私は感じた。

作家だけでなく友人たちに対しても、はっきりものをいう。

「こうしたらあかんえ」「こうしたほうがいいんちゃう」という、それは自分にとって大切な人への愛情表現の発露ではないだろうか。見てしまったら、見て見ぬ振りはできない。それが誤解を生むこともあるのも承知の上で助言する。

勿論、反対の立場も日常で人の人生に関わるということは面倒なことが多いが、敢えて口を挟むのは愛情があるからだ。どうでも良ければスルーすればいいだけのことなのだから。

 

 

こんな男前の永松さんを前にすると田舎者の私はいつもドギマギしてしまう。京都の女性はやっぱり苦手なのである。

だから街中などでバッタリ出くわすと、虚を衝かれて一瞬声が出なくなる私を横目に、永松さんは颯爽と歩いて行ってしまう。

その後ろ姿を眺めながら、やっぱり敵わないと想う。それはやはり人として、生きる覚悟が在るかないかの差なのかもしれない。

父の名前を背に、母の言葉を胸に、永松さんは今日も自分の信じた道を歩いていく。

 

 

 

昂KYOTO(こう きょうと)

住所:京都市東山区祇園町南側581 ZEN 2F
電話:075-525-0805
営業時間:12:00~18:00
定休日:月・火(不定休あり、webなどで御確認ください)
ウェブサイト:http://koukyoto.com

 

 

執筆:上野昌人(編集者・デザイナー)

1959年生まれ。2008年より京都に在住。出版社「無盡藏(むじんぞう)」代表。

ブログに戻る